聖書のみことば
2022年1月
  1月2日 1月9日 1月16日 1月23日 1月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

1月30日主日礼拝音声

 信仰による救い
2022年1月第5主日礼拝 1月30日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第5章25〜34節

<25節>さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。<26節>多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。<27節>イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。<28節>「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。<29節>すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。<30節>イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。<31節>そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」<32節>しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。<33節>女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。<34節>イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 ただいまマルコによる福音書5章25節から34節までをご一緒にお聞きいたしました。主イエスが会堂長ヤイロに頼まれてその家へと急いでいた時、一つのハプニングのようにして起こった出来事がここに記されています。
 ヤイロの家に向かう主イエスの後から、大勢の群衆がひしめき合いながら従っていましたが、その群集の間から突然一本の手が伸びてきて、主イエスの衣の裾をしっかりと掴みました。主イエスが触れられたことに気づいて歩みを止められ、ご自身に触れようとした人物をお探しになります。主イエスが立ち止まったことで群衆全体も歩みを止めました。おそらくそのことは、ヤイロにとっては気が気ではなかっただろうと思われます。それでも主イエスは一時歩みを止められ、ご自身に触れた人物と出会おうとなさいました。
 けれども、おそらくこの時、主イエスご自身は「だれが触れたのか」を分かっておられたに違いありません。主イエスは衣を引っ張られたことを怒ってはおられません。迷惑がってもいません。むしろ、それを歓迎し喜んでおられるかのようです。その喜びを確かに伝えて、触れた人物を支えようとして、立ち止まられたのです。

 この日、主イエスに手を伸ばして触れたのは一人の女性でした。25節26節に「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」とあります。この女性は12年もの間、病み通しであったと紹介されています。闘病生活によってすっかり疲れ切り、その魂も千々に乱れていました。特にその病が下半身に関係するということで、辛くやりきれない思いを抱えていました。これまで多くの医師の世話になりましたが事情は少しも良くならなかったと言われています。診察の度に辛い思いをさせられ、しかも一人ではなく何人もの医師に診てもらい高額の診療代がかかったけれど、良くはならなかったのです。「全財産を使い果たしていた」と、全財産を使い果たしてでも良くなりたかったのに、状況は思わしくなく「ますます悪くなるだけであった」と言われています。
 こういう境遇では、もはや全てに投げやりになって自暴自棄に陥るということがあったとしても無理もないことではないでしょうか。この女性は、この先自分はどうすればよいのか分からなくなり、途方に暮れていました。

 ところが、そのように暗闇の中に置き去りにされているように感じていた彼女の目の前で一つの出来事が起こりました。会堂長のヤイロが主イエスの前に跪いて、「どうか一緒に家に来ていただきたい」と願い出たのでした。ヤイロは町の名士です。多くの人がヤイロを知っていて、またその娘の病状が思わしくなく、もはや手遅れで医師も手の施しようがなくなっているという噂話が群衆の間から漏れ聞こえてきます。
 この女性は、その噂話を聞いた時に、死にかけているヤイロの娘が自分自身と重なり合うところがあると気づきました。医師に診てもらっても良くならないという絶望感があり、おまけにヤイロの娘は12歳でした。この女性も12年の間、病に冒され辛い思いをしていたのでした。どちらも、もはや手遅れで手の施しようがないのです。
 しかしそれでもヤイロは、主イエスに信頼してひれ伏し、主イエスに依り頼もうとしました。そういうヤイロの、精一杯の主イエスに対する信仰を示されて、この女性も、ふと目の前におられる主イエスに依り頼んでみようという思いになったのでした。群衆の中から伸びてきた一本の手には、そういう経緯がありました。

 この女性は、目の前で会堂長ヤイロの父親としての愛と主イエスへの深い信仰を示されました。娘がすでに手遅れになっているにも拘らず、また後には死んでしまったにも拘らず、それでも「ただ信じなさい」という主イエスの言葉に励まされて、ヤイロはなお主への希望の中を生きています。この女性は、そういうヤイロの信仰に励まされました。そして彼女自身の中にも、本当に微かですが希望が与えられ、目の前にあった主イエスの衣の裾を思わずギュッと握ったのでした。27節28節に「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」とあります。ヤイロの信仰にいわば触発されるようにして、この女性の中に微かな信仰が生じました。そして後ろから主イエスの衣の裾を握りました。日本語訳では「触れた」となっていますが、「握った」という意味の文字です。そして主イエスはこの時、この女性の中に本当に微かな信仰が宿っていることに気づかれたのです。それで、歩みを止め、一時立ち止まられました。
 主イエスが振り返られたのは、触れた人を見つけ出すためではありません。だれが自分に触れたのかということであれば、主イエスにはもう既に分かっています。主イエスが立ち止まり振り返られたのは、触れた人を探し出すためではなく、その触れた当人が主イエスの前に名乗って出ることができるようにしてあげるためでした。その様子が28節から30節に記されています。「『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた」。
 主イエスがお気づきになり感じられたこと、それは服を引っ張られたということではありません。「自分の内から力が出ていった」こと、つまり、「主イエスを通して神の御業が確かに起こった」、そのことにお気づきになったのです。
 神の力が働いて、「神の慈しみによって慰められ、力を与えられ、生き始める」ということが、ここに生じています。主イエスはそのことをこの女性にはっきり伝えようとして、歩みを止め、振り返っておられるのです。「わたしの服に触れたのはだれか」とお尋ねになります。他人事としてこの記事を読んでしまうならば、「だれが触れたのか」という「だれ」というのは文字通り誰か第三者の名前がここに入ることになります。けれども、この日この場面にいた群衆の中には、「だれが触れたのか」と尋ねられて「わたしです」とおずおずと答える人がいたのでした。

 この女性に宿った信仰は、ヤイロの信仰の姿から示された本当に微かなものでした。ヤイロが手遅れになっている娘をそれでも主イエスによって癒していただきたい、救っていただきたいと期待し望んでいる姿を見て、ヤイロの死にかけた娘と自分自身の姿が重なり、そして思わず「わたしも」と手を伸ばしたのでした。この女性に与えられている信仰、それはヤイロの信仰の姿に影響を受けて瞬時に閃いた刹那の信仰です。本当に微かな、僅かなものです。ヤイロは前々から主イエスに期待を寄せていましたから、主イエスがカファルナウムの岸辺に戻られたことを知り、主イエスの前に行き、ひれ伏しました。
 けれども、この女性はそうではありません。もしこの女性もヤイロと同じようであったならば、ヤイロと同じく正面から主イエスの前に名乗って現れ、ひれ伏していたことでしょう。しかしそうではなく、この女性の場合には、まさにこの時、信仰が閃いたのです。「ヤイロの娘と同じように、わたしも行き場のない身を抱えている。けれども、もしかしたら、この方になら癒していただけるかもしれない」という希望が閃きました。

 そして本当に一瞬のことでしたが、主イエスはその出来事を見過ごさず、喜んでくださったのです。主イエスはこの女性の中に芽生えている小さな信仰の火花を見逃しません。その火花が最初は小さな種火のようなものでしかないとしても、この人の中で確かにそれが着火し、赤々と燃えて、この人を温める本物の薪になることを、主イエスは望まれるのです。そのために、主イエスは立ち止まり振り返って、この女性がご自身との交わりの中に生きるように導こうとなさいました。
 この女性は確かに、主イエスを通して働いた神の力によって癒されました。神が顧みてくださる中で、深い憐れみと慈しみを与えられ、力を与えられ、健康にされていくということを自分の体に感じました。けれども、それは主イエスの後ろからそっと触って、そうなっているのです。言うならば、この女性は神の慰めと癒しの力を主イエスの後ろから盗み取るようにして、力づけられ癒されています。
 しかし彼女が経験している力は、決して主イエスの衣に宿っている魔法の力というようなものではありません。そうではなくて、この女性が与えられた力は、元々は「主なる神さまが人間一人一人を深く愛し生かそうとしてくださっていることから始まる力」であって、「神さまが主イエスを通してその人に働きかけようとしてくださる慈しみの力」なのです。主イエスは、女性が経験した力が得体の知れない魔法のようなものではなく、「主イエスご自身との生きた交わりにおいて、もたらされるものである」ということを、はっきりとこの女性に伝えようとなさいました。それで主イエスは振り返り、立ち止まられたのです。

 この女性は、ヤイロの強い信仰に触れて彼女自身も信仰を与えられています。しかしそれは、信仰とは言ってもヤイロの赤々と燃え盛る炎の中から飛んできた火の粉が少し落ちたような、その程度のものでしかありません。彼女の信仰は、ヤイロのように正面から主イエスの前に名乗って出るというほど強くありません。彼女は、群衆に紛れてそっと後ろから主イエスの衣に触れて、誰にも気づかれないまま自分が抱えている嘆きや悩み、病を癒されたいと願います。ところが主イエスは、その弱く乏しい信仰、微かにこの人の中に宿った信仰を顧みてくださるのです。傷ついた葦は折られず、仄暗いランプの明かりもかき消されることはありません。この人に生じた癒しが単なる魔法や、言葉の綾や思い込みではなくて、確かに神の御業として生じたことを分からせたいために、主イエスは振り向かれるのです。「だれがわたしに触れたのか。わたしに触れて癒されているのはだれか。あなたがそうなのか」と、群衆の一人一人に、主イエスはそう尋ねてくださいます。

 この時、主イエスのすぐそばに従っていたはずの弟子たちは、主イエスがここで取っておられる行動が理解できません。主イエスがここで意図しておられることも分かりません。なぜ分からないかというと、実際にここに癒しの出来事が生じていることを知らずにいるためです。弟子たちは言います。31節に「そこで、弟子たちは言った。『群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、「だれがわたしに触れたのか」とおっしゃるのですか』」とあります。
 弟子たちはこの出来事を、ただ混雑の中で体と体がぶつかり合った程度のことにしか受け取りません。弟子たちは、ここで本当に起こっていることを何も分からずに話しています。けれども主イエスは、「だれがわたしに触れたのか」と尋ねてくださり、「わたしです」と名乗って出ることを静かに待っておられるのです。

 そしてまさにその通りになっていきます。33節に「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」とあります。この33節は、マルコによる福音書とルカによる福音書では、書かれている内容が微妙に食い違っているところです。ルカよる福音書8章47節を読みますと、主イエスがしつこく群衆にお尋ねになるので女性が隠しきれないと知って震えながらすべてを語ったのだとあり、この女性が「もはや隠しきれないと観念して白状した」という書き方になっています。しかしマルコによる福音書では、そうではありません。「もはや隠しきれないと観念して白状した」ということではなく、この女性は、「自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」と言われています。
 この女性の身に起こっていることとは何でしょうか。長年苦しんできた病がたちどころに良くなったということでしょうか。もしそれだけであれば、この女性は群衆の中からそのまま黙って立ち去って行ったことでしょう。
 この女性に起こっていることは、「病気が癒された」ということだけではありません。それ以上のことが起こっています。すなわち、神が主イエスという方を通して具体的にこの人の前に来られ出会おうとしてくださっている、神が主イエスを通して、この人との人格的な交わりを持とうとしてくださっている、そして主イエスとの交わりの中で、神さまの慈しみと慰めの力が主イエスから女性へと流れて、癒しの出来事が起こっているのです。

 このようにこの女性は、自分が「神から顧みられている。主イエスから顧みられている」ということに気がついて、深く感動し、畏れの感情を抱きました。
 「おそれる」という言葉には、二種類の意味があります。熟語でいえば「恐怖」という場合と「畏怖」という場合です。「現代人は恐怖の中に過ごす時間は長くなっているけれども、畏怖を覚えることは少なくなった」と言われることがありますが、悪いことが自分に起こるのではないかと強く心配するのが「恐怖」のおそれです。しかし「おそれ」はそれだけではありません。真に大きな力に出会わされて深い敬いの心が生じて畏まる(かしこまる)時に、私たちが感じるおそれ、それが「畏怖」の心です。「誠に恐れ入ります。恐れ入りました」という時の「おそれ」が畏怖です。

 主イエスはこの女性に神の力を持ち運びました。女性はそれによって病気が良くなったのですが、ただ自分が癒され慰められ勇気づけられただけではなくて、そのように自分を力づけてくださる源となっている方、神が、「主イエスを通して、今、自分に出会おうとしてくださっている」ということに気づかされ、深い畏れと敬いの気持ちに捕らえられ、激しく心を動かされているのです。震えながら主イエスの前に進み出たというのは、「どうなるのだろう」という不安や恐怖からではなく、自分がそのように神に覚えていただいたという感動によって生じていることです。そして、ありのままを主イエスに申し上げたのでした。

 まさに「恐れ入っている」この女性に、主イエスは暖かく御言葉をかけてくださいました。34節に「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい』」とあります。私たち人間の中に兆す本当に小さな信仰の火花、あるいは兄妹姉妹から飛んできて私たちの心の内にちょっと落ちるような小さな信仰の火の粉を、主イエスはご覧になります。そしてそれが確かに私たちのうちに宿り、私たちを僅かでも温めていることをご覧になって、喜ばれます。
 そして、その小さな信仰が主イエスとの交わりにおいて与えられ、また神が顧みてくださることによってもたらされているということを、ぜひ伝えようとして、主イエスは私たちに出会おうとしてくださいます。信仰によって温められ、力づけられ勇気を与えられ、慰めを受けて生きるようになることを、主イエスは私たちに望んでくださり、それゆえに出会おうとしてくださるのです。

 今日の箇所に記されている病気の女性だけではなく、ここにいる私たちにも、主イエスは呼びかけてくださいます。「わたしに触れたのはだれか。その信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。私たちは、主イエスとの交わりの中から力をいただいて、この地上の生活を歩んでいきます。
 教会の頭として主イエスが共に歩んでくださる、その生活に連なる者として、私たちは、御言葉に慰めと勇気を与えられながら、ここからまた歩んで行きたいと願います。お祈りを捧げましょう。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ